島に移り住んで数年後、納屋に篩(ふるい)の様な木製の鉢に収められた漁具が仕舞われているのを見つけた。何を目的とした道具であるのかは全くわからない、制作年であろう年代(1970年代)とこの家の屋号が記されている。明日にでも漁に行けるような状態で明らかにこの家に住う者へ、つまり私にむけて残された漁具であると捉えることができる状況だった。地元の漁師にとっては馴染みのあるその道具は、何も知らない私にとっては、道具というより記号の集積されている造形であった。のちにそれは延縄漁という漁法の漁具で、「ナワバチ」と呼ばれるこの辺りでは穴子を獲っていた漁具だということを知った。延縄漁とは、県下の水産業研究者らが編纂した漁業史によれば、代表的な漁業産業である鯛と漁場を同じくする異なる魚種の漁業として説明されている。
*1 その一方で民俗学者の宮本常一は延縄漁と漂流漁民の関係性にまつわる文献において「ナワバチ」は、瀬戸内海の島嶼および沿岸地域における漁撈環境を取り巻く社会、経済と消費の関係について、近世の瀬戸内海における舸子(かこ)浦と小漁民との関係性が大きく関係していることを『瀬戸内海の研究1』において詳細に記述している。*2
*1 延縄漁は全長約三千尋の延縄に十三尋ごとに枝糸(四尋)を下げ餌は春季いいだこ、八十八夜頃にはテナガダコを細断し(中略)小潮またはトロミ(満潮時の潮の緩み)の頃、水深十五〜二四尋ほどの瀬と砂礫の淵、あるいは藻場の淵に
仕掛ける。(香川県漁業史, 1994年, p155)
*2 延縄漁は夜間操業が多く、そのため船を家として漁業を営むものが少なくない。と同時に、漁場を求めて漂泊するものが
多くそれらが漁場の近くに定住して新しい漁業部落を作る。(中略)その一つは手繰網や延縄を主要漁具とする夜間営業の浦であり、そのうち夜漁の村の方が内海西部では古い伝統を持っているものが多い。小網と延縄は内海中世部にあっては中世末まではもっと普通に見られた漁法であった。これら小漁師の村は特別の保護を受けることもなく、また新たに定住した土地では耕地の入所も開墾の余地がない限りは極めて困難であり、特に夜漁を主として家族が船住居する仲間は耕地を持とうとせず、魚のいるところを追って、移動が主になるから、漁労一色の部落を形成する。それらは大抵すでに存在する海岸集落のかたすみに寄生するのが普通である。(中略)一般的には魚と穀物を交換してくれる人の多いところかまたは小魚を餌料にする漁民集落の近くにいる必要があるから、住民の多い集落のかたすみに居住を構えるのがもっとも好都合だった。(宮本常一, 瀬戸内海の研究T, 1965年, p675)
ところで、現代社会の私たちは、どのような場面でも貨幣による交換を伴って移動をし、体験を得る。移動先を想起することすらも、貨幣価値を背景とした作用が起因となっていると言っても言い過ぎではない。労働の対価として得た貨幣を交換を頼りに体験へと投じる。移動だけではない、全てにおいて労働とその成果が一旦貨幣の価値に置き換えられ、その後また必要なものは貨幣と引き換えに得ることができる。我々の社会においては貨幣価値の尺度によって経験を得ているといえる。ただし今そのことを議論しようとしているわけではない。そういった価値観が我々の社会の空気を満たしていることを認識した上で、貨幣に基づいた尺度による社会の構造には身をおかず、主体的な生産性とその交換によって構築した関係性を頼りに移動した人々が、形成した領土について見つめてみたい。
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