残された道具から浮かび上がる逃走線

私は今静かな島で暮らしている。離島での暮らしは、必要なものの多くは直接自らの作業によって手に入れるか、ときに交換によって得る。定期船に委ねた島外への外出は濃い霧がでたり強い風が吹けば船は泊まり島に留まるしかない。そんな自然の摂理に身を寄せるような暮らしをしている。私はそう言って自分の生活を人に話し、相手に島への想起を促す。ただし聖地のような特別な場所を想像してもらいたいわけではない、目の前に居る身近な存在が身を寄せ暮らしている、同時代に有る別の場所へと想いを寄せてもらうことを望んでいるのだ。
「人間は食うためにだけ働いているのではなくて、働くために食うものだということです」。民俗学者の宮本常一は多くの場面でこう述べる。私はこの島で暮らし始めてから、この「働く」について、生きていくための様々な作業と捉えるようになった。それは食べ物や道具といった直接必要なものを造ることであり、また目的をなすための共同体のような関係性をつくることでもある。



穴子延縄漁具「ナワバチ」

島に移り住んで数年後、納屋に篩(ふるい)の様な木製の鉢に収められた漁具が仕舞われているのを見つけた。何を目的とした道具であるのかは全くわからない、制作年であろう年代(1970年代)とこの家の屋号が記されている。明日にでも漁に行けるような状態で明らかにこの家に住う者へ、つまり私にむけて残された漁具であると捉えることができる状況だった。地元の漁師にとっては馴染みのあるその道具は、何も知らない私にとっては、道具というより記号の集積されている造形であった。のちにそれは延縄漁という漁法の漁具で、「ナワバチ」と呼ばれるこの辺りでは穴子を獲っていた漁具だということを知った。延縄漁とは、県下の水産業研究者らが編纂した漁業史によれば、代表的な漁業産業である鯛と漁場を同じくする異なる魚種の漁業として説明されている。 *1 その一方で民俗学者の宮本常一は延縄漁と漂流漁民の関係性にまつわる文献において「ナワバチ」は、瀬戸内海の島嶼および沿岸地域における漁撈環境を取り巻く社会、経済と消費の関係について、近世の瀬戸内海における舸子(かこ)浦と小漁民との関係性が大きく関係していることを『瀬戸内海の研究1』において詳細に記述している。*2

*1 延縄漁は全長約三千尋の延縄に十三尋ごとに枝糸(四尋)を下げ餌は春季いいだこ、八十八夜頃にはテナガダコを細断し(中略)小潮またはトロミ(満潮時の潮の緩み)の頃、水深十五〜二四尋ほどの瀬と砂礫の淵、あるいは藻場の淵に 仕掛ける。(香川県漁業史, 1994年, p155)

*2 延縄漁は夜間操業が多く、そのため船を家として漁業を営むものが少なくない。と同時に、漁場を求めて漂泊するものが 多くそれらが漁場の近くに定住して新しい漁業部落を作る。(中略)その一つは手繰網や延縄を主要漁具とする夜間営業の浦であり、そのうち夜漁の村の方が内海西部では古い伝統を持っているものが多い。小網と延縄は内海中世部にあっては中世末まではもっと普通に見られた漁法であった。これら小漁師の村は特別の保護を受けることもなく、また新たに定住した土地では耕地の入所も開墾の余地がない限りは極めて困難であり、特に夜漁を主として家族が船住居する仲間は耕地を持とうとせず、魚のいるところを追って、移動が主になるから、漁労一色の部落を形成する。それらは大抵すでに存在する海岸集落のかたすみに寄生するのが普通である。(中略)一般的には魚と穀物を交換してくれる人の多いところかまたは小魚を餌料にする漁民集落の近くにいる必要があるから、住民の多い集落のかたすみに居住を構えるのがもっとも好都合だった。(宮本常一, 瀬戸内海の研究T, 1965年, p675)


ところで、現代社会の私たちは、どのような場面でも貨幣による交換を伴って移動をし、体験を得る。移動先を想起することすらも、貨幣価値を背景とした作用が起因となっていると言っても言い過ぎではない。労働の対価として得た貨幣を交換を頼りに体験へと投じる。移動だけではない、全てにおいて労働とその成果が一旦貨幣の価値に置き換えられ、その後また必要なものは貨幣と引き換えに得ることができる。我々の社会においては貨幣価値の尺度によって経験を得ているといえる。ただし今そのことを議論しようとしているわけではない。そういった価値観が我々の社会の空気を満たしていることを認識した上で、貨幣に基づいた尺度による社会の構造には身をおかず、主体的な生産性とその交換によって構築した関係性を頼りに移動した人々が、形成した領土について見つめてみたい。




能地・二窓家船移住寄留地分布地図 (家船民族緊急調査報告書,広島県教育委員会,1970)

広島県教育委員会が1970年に「家船民族」について作成した調査書では、瀬戸内海西部の二つの湊を拠点とする漂流漁民らの生活様式について、民俗学的調査に基づいて記録されている。家船と呼ばれる住居を兼た船に一家で生活を伴いながら漁を生業とし、漂流することを選んだ漁民たちはそれぞれに海を行き来する中で、各々に関係性を作りながら、網子に入ることもなく、土地にも住まわず、幕藩体制の社会構造の中に組み込まれることなく、海上を漂流し時には定住するものもあったという。何れにしても、漁った魚を市場にて貨幣へと交換せず、小農民らとの物々交換や、薪をとり水を汲むといった、生活における協力者たちとの直接的な贈与としてその魚を分けた。*3 また彼らは、周囲の人々の漁労の支障にならない方法としての技術を手繰り網漁や延縄漁によって切り開いた。このような漁撈環境をめぐる当事者とその周辺の関係性を経て今ここに「ナワバチ」があることを、宮本の意見を通して解釈すると、その生業が孕んだ同時代性についても捉えることができる。*4 漂流漁民が瀬戸内海を横断したその背景にある社会は、中世以降の貨幣流通の生産形態の変容とともに海上流通体制の整備に伴った海賊、小早川氏と舸子浦制度の影響が大きく、陸を拠点とする人々とその経済から距離をとり、分離可能な集落の形成方法をとっている。*5漂流して生きること、移動しながら魚を獲り、物と交換しながら生活における協力との関係を築き、直接的に自らの暮らしを立てる実践は、封建的な社会を背景に、地理的な条件を踏まえて偶発的に発生したと捉えられる。やがて社会は、封建的支配体制から、貨幣経済を中心とした経済資本主義体制へと変化し、漂流漁民は陸へと上がった。生活の拠り所を、海を中心とした生活様式に求めていた彼らの生活観念は、今となってはその集落の痕跡が静かに物語る。

*3釣漁や網漁は、相互に提携しあうことによって、成立を可能にする場合もある。たとえば延縄漁は一艘のみで操業するすることは少ない。何艘もの船が組みを組んで沖に出、それが海の中へ釣縄をはえていく。延縄は3〜4キロメートルもはえる事があり2メートルごとに枝糸をつけ、釣針をつけるとすれば、二千も釣鉤がついていることになる。(中略)そのえさが容易に手に入らなければならない。その餌はエビや小魚を用いる事が多い。エビや小魚をとるのは手繰り網が主で、したがって手繰網の漁師から餌を買う。(宮本常一, 瀬戸内海文化誌, 2018年, p333) *4釣漁には延縄がある。(中略)そして内海の大きな根拠地は二窓であった。二窓も能地と同じように船居住の浦であり、(中略)近世に入ると広島藩の水主役を勤めることなく、海上漂泊を主として伊予灘、斎灘、燧灘などに漁場をひらいていった。そしてその諸所に仮住いをすることがあった。延縄を主とする浦には二窓から移住したものが多く、あるいは二窓の漁民が漁法を伝えて立ち去ったものが多い。(宮本,2018年,p331) *5 海賊の中にいてその中心勢力になることではなくて、海賊の上にあってどこまでもその支配者であろうとした。(中略)物と物との交換による経済の側で、貨幣流通の行われる社会にあっては年貢進納以外に商品としての物資が大きく動きはじめたことを見逃してはならない。そして商品生産の拡大は生産者を次第に生産専業組織の中へ追い込んで行き、支配者は支配、生産者は生産へとはっきり分離し始める。(宮本, 1965年,p340)




「ナワバチ」の制作

漂流漁民らの営みにおいて求めているのは移動なのか、それとも交換なのか。そのあり方は、封建的社会から貨幣価値の社会へと変換されつつある領土*6をささやかにほどき、静かに雀蜂と蘭の関係の様に、立ち寄る浦々が彼らを再領土化する。一本の幹糸に無数の枝糸、その先に付けられた針の大きさは、漁師の脱領土に向けた実践であり、その実践により獲得した獲物は彼らの移動をより交換関係の先へと誘う。この漁民たちの生産性を伴った移動を逃走線として眺めてみると「ナワバチ」による漁撈は創造的行為といえ、今ここに残された「ナワバチ」はその技芸を為すために寄せ集めて発明された造形と捉えられる。





「かかる製作を無限に変化させる能力」としての漂流漁民の生活様式が編み出した「ナワバチ」は、この家で暮らした者たちの生業として活きた時代を経て、道具としての役目を終えここにある。ではそれを手に取り物語を読みとってしまった我々における再領土化とはどのようなあり方があるだろうか。私が知る「残された漁具」を自身の生業として引継いだ漁師は十年前から穴子延縄漁を生業としている。彼は地域では消滅しつつある漁を、地域的な責務とは別の次元、つまり「自分の技術と海の環境が最も生々しく対峙することができる無駄のない漁」と捉えたうえで延縄漁を選択した。私はそのあり方をベルクソンが主張するホモ・ファベル *7の、「人為的なものを作る能力、特に道具を作るための道具を作る能力」を参照し解釈している。それは、延縄漁師の漁撈における、山アテに瀬戸大橋の架橋や、海浜に建つ工場の煙の向きを引用し、魚の活性に合わせた潮のタイミングに、スマートフォンのアプリで海底の瀬の位置を確認しながら縄を延べるといった実践は、現代社会において活動する身体によって習得された技芸である。つまり延縄漁が現代における漁師によって「ブリコラージュ的感性によって改新されつつ伝承されていく」*8姿なのであると主張したい。すなわち漁師は道具のその成り立ちや周囲の環境と形成した関係性をも含めて、自身の身体的な技法として取り入れ、道具が孕む領土を解読し「ナワバチ」を一つの造形的な表現と捉え応答し自らを再領土化してゆくのである。

*6領土とはまさに一つの行為であり、この行為が全ての環境とリズムを触発して「領土化」を行うのだ。領土は全ての環境とリズムを領土化したとき生まれてくるものだ。(中略)領土とはあらゆる環境から何かを借り受け、あらゆる環境に食い込み、全ての環境をしっかりと抱きとめる。(中略)領土は質の指標に先行するものでは無い。指標が領土を作るのである。領土内の機能は最初からあるものでは無い。機能はまず、領土を形成する表現性を前提とするからである。こうした意味で、領土および領土内で働く様々な機能は確かに領土化の産物なのである。領土化は表現性を持ったリズムが行う行為、あるいは環境の成分が質を持ったときに行う行為である。 (G.ドゥルーズ/F.ガダリ,千プラトー,1994,p363)
*7 おそらく我々はホモサピエンスと言わないで、ホモ・ファベル(工作人)ということであろう。要するに、知性とはその根源的なあゆみと思われる点から考察するならば、人為的なものを作る能力、特に道具を作るための道具を作る能力であり、またかかる製作を無限に変化させる能力である。(アンリ・ベルクソン 創造的進化, 2001年, p165)
*8 そこにはアートは、ヒトが生活のあらゆる具体的場面、問題発生の現場で、その問題の解決、解消のために、全ての身体感覚、思考をもって取り組んでいこうとする活動なのだ。活動を解決という方向に向かって導いてゆく全行程のことなのだが、それは近代のようにシステム化されているわけでもなく、学習されているわけでも無い(中略)その都度新しく創造活動に連なるものとして新鮮な瞬間を持って実践される活動なのだ。(白川昌生, 美術 神話 総合芸術「贈与としての美術」の源へ 2019,p191)




瀬戸大橋と延縄漁労を行う漁師

表現とは、連綿と続く我々の営みにたえず気づきを与え、その気づきはそれぞれの暮らしの眼差しに反映される。私たちは表現の根底にある、人間が見出した倫理に時代を経ても共鳴し、思想を憑依させ、領土の脱構築・再構築を試みる。  延縄漁具を手がかりに見た一つの旅のあり方とは、社会の構造に絡め取られ損ねた人々が編み出した動的な力の痕跡である。その在り方に応答してしまった人々が、都度脈々とこの造形において再領土化してゆく。この連綿と続く連鎖への問いと考察と俯瞰と更新の繰り返しが、この島で暮らしながら表現に取り組む私の態度である。

Ta+: ISSUE #006 Travel and Artistic Production (2021 +jounal)に掲載したテキスト



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