Dialogue
土地/記憶/物語/ヴァナキュラー



プロローグ

展覧会のお話をいただいて、田の浦をたびたび訪れるようになった。カメラを抱えて山道に入り、微かに残る径へと分け入り、 人が居なくなった家や猪に荒らされて崩れてしまった石積み、径を歩く人を導くみちしるべ、木々が覆うかつての生活 の道など、土地の生活の痕跡を辿り歩く一方で、ここで暮らしてきた人たちの話を聞き、そして先人達が遺した文献を 頼る。
残された物と語られる事を照らし合わせながら、集落ひと他人やものと対峙してゆくうちに、土着性と共に私たちの生活そのものを取り 巻き、積み重ねてきた時代性が立ち上がってくる。 写真や映像を通して土地と人々の歴史と記憶をめぐり、インスタレーションを組み立てるプロセスにおいてヴァナキュラー * という視座で同時代性を見つめた展示である。

*ヴァナキュラー ヴァナキュラーは、一言で言えば「人々の生活から生まれた」固有な文化である。単語を直訳すれば「土着の」という意味だが、「その土地ならでは の」とか「生活文化から生まれた」とか、「その社会に特有な」といえば、しっくりするだろう。現代の地域社会や小さなコミュニティ、職場、学校、 サークル、あらゆる社会には、その人々独特なヴァナキュラーが存在する。生活文化は歴史的な展開の中で育まれてきたものであるが、それが現代 においてどうあらわれているのかをヴァナキュラー文化として捉える。 加藤幸治 民俗学 ヴァナキュラー編 人と出会い、問いを立てる より



リサーチ

田の浦へ通うようになり、集落出身の鈴木展子さんより、お父上の池田正輔氏が撮影した古い写真を見せていただく機会を得た。 それまで田の浦の人や地域の民俗について残した文献で知り得たかつてのこの集落における生活様式について、池田さんの写真に映される被写体となって いる人々の姿はもちろん、背景の山々や集落の家々の光景にも注視するものがあった。








モノクロ写真は全て池田正輔氏が撮影

「田ノ浦」 『小豆島の民俗』
壺井栄の「二十四の瞳」のモデルになった、みさきの分教場があるところである。
苗羽小学校田ノ浦分校、現在も複式学級である。 ここは長く陸の孤島であり海上のみにたよっていたが、昭和三十三年県道の改修により一日五往復のバスが通づるようになって、もはや陸の孤島では無くなってきた。
現在田ノ浦約六十戸、切谷十戸の戸数があり、漁業と農業によって生業の道をたてている。田ノ浦は山の頂まで小さな段々畑が開墾されている。昔から「田ノ浦千軒段千間」という言葉が残っているように昔は大変栄えていたらしいが、九州の「田の平」への移住もあったせいか今は寂れてしまった。
陸上の道は馬立て峠を通って堀越、苗羽に通じる狭い道しか無かった。馬立とは道が険しく馬が立っている様に見えるのでこの名がつけられた。馬に背負わせてものを運ぶことはできず、荷物があったら船で運んでいた。呉服屋さん、薬屋さんがこの峠を越えてやってきた。お遍路さんもこの道を越えて来た。
石臼の大きなのがいくつか転がっている。昔牛に粉をひかせて素麺を作っていたのがわかる。            

“田の浦の人のお話”                                                     
私たちが子供の頃はたばこが盛んで、子供の頃は収穫に行って、運んでましたよ。現金収入はほとんどたばこだったんじゃないかな。 昔は田浦千軒段千間とかゆうてずっと上まで家があったらしいからね。 子供の時山行ったらね、まぁもう山になってたけどね、でも田浦千間っていうのがわかったよ、ここが畑やったんやな感じは残っとったよ。 島原の乱があたっときに、島原の人口が減って、田浦からも移住したらしい。向こうにも田浦というところあるらしいよ。

「田の浦」 『小豆島民俗誌』
陸上の道は馬立て峠を通って堀越、苗羽に通じる狭い道しか無かった。馬立とは道が険しく馬が立っている様に見えるのでこの名がつけられた。 馬に背負わせてものを運ぶことはできず、荷物があったら船で運んでいた。呉服屋さん、薬屋さんがこの峠を越えてやってきた。お遍路さんも この道を越えて来た。石臼の大きなのがいくつか転がっている。昔牛に粉をひかせて素麺を作っていたのがわかる。

“田の浦の人のお話”
遍路道を上に上がっていく馬立ていうのがあってね、お不動さんがあってな、今でも節分にお不動さんまで行くんですよ。今年もね、いってき た。一番上にも大野地蔵さんいうのがあってね。父や母の時はあれを越えて学校いくしかなかった。 私たちの頃は墓の所から山を越えてな、堀越に抜けよったんよ。終中、戦後くらいあの辺も疎開してきた人の家があったんよ。 みんな一緒に集まって中学校いっきょったからね。朝早よから蒸したさつまいもをな、あったかいから抱えてな、歩きもって食べもって1〜2 時間あるいていっきょったんよ。途中で堀越で堀越の子たちと合流してな。

『小豆島の民俗』
田ノ浦ではまた「年越」* の日を「麦の口開け」といって、麦飯を神棚に供えたそうである。村人は、この日の朝から暮れにかけて、氏神八幡 へ参詣するのを例とした。そして、家への土産は誰も彼も棒飴であった。これを金が伸びるように火に炙って長く伸ばして喰べると長生きがで きると考えた。家では大豆を煎って神棚へひとつまみづつ供へる。 * 年越」というのは一般に大晦日を呼ぶ語でもあるが、島では「おおつもごり」、節分は「年越」というのが昔からのふうであった。

「田ノ浦」 『小豆島の民俗』
漁業は昔は盛んであった。網元は何件もあって仲々盛況であった。山上で見張りをし、魚の群れを見つけると共同で漁をした。出買いの 船があちこちからやってきて港は賑わった。然し今では魚も取れなくなり、はまちの養殖に転換したり、すずきなどの高級魚を求めてさ らに遠くの海に出漁している。

  『小豆島民俗誌』 川野正雄著
6月末になると、これまで海浜にのぼされていた二艘つなぎの網舟が下される。沖引き網或いは大鰯網ともいわれるもので、網の袋が繕 われる。「出通い」(でがい)とか手舟(ちょろ)などと呼ばれる小舟も下される。 浜辺にあるあちこちの鰯煎場(いりや)や、丘上い立つ「山ん場」(魚見やぐら)が修繕される。常は野良働を主とする人たちもこれから 九月にかけての三、四カ月鰯ひきの仲間に入る。小学校三、四年の男の子といえども例外ではなかった。舟下ろしの日には、速製の漁夫 も含めて網元の家で馳走になる。また「煎りや」で働く筈の女たちはこの日の飯炊きや給仕となる。 (中略) 午網は大抵午後の二時か三時に出かけるのであるが、「山ん場」からの合図があればいつでも「ほら貝」が人々を集めて出かけて行った。 そして、大漁の日は網舟に「大漁」の旗網は毎日朝網と午網の二回は決まってやられた。時刻はいわゆる丑三つ時。陸(おか)に繋いだ 舟の中で「どんさ」を被って寝ていた「泊り番」は起き上がる。眠い目を擦りながら、組うちの漁師(大方は速製の)たちの家を起こし にいく。トントンと提灯片手に戸を叩いて歩く。浜ではブーブーほら貝が夜闇をついて吠える。小さい子供らまでが起き出して登校前の ひと労働に参加する。 やがて、一同出揃ったところで、一人前の男たちは網舟に乗り込む。子供らは「手舟」や「出がい」にそれぞれ乗る。「手舟」や「出がい」 には一人ずつ網の親分株(沖あい)が乗り、彼らは「ほて」と称する白い軍扇様のものを持って網舟に合図をするのである。 夜明けにはまだ数時間ある。掛け声で闇の海原を、夜光蟲の光る鏡のような水面を網舟はすべってゆく。そして、大体目的地近くへ漕ぎ 出した時、舟はみな錨を下ろし、人々は一寝入りして明け方を待つ。

「田ノ浦」 『小豆島の民俗』
ここには定期船は来ない。バスが通じる以前は、漁船で荷物や人を運んでいた。高松の方に行くには、苗羽や坂手あたりまで小船で出て定 期船に乗り継いだ。急ぐときは内海湾の途中で定期船を止めて乗せてもらった。

“田の浦の人のお話”
   ここら辺は昔は古江やったらしい。そんでみんなここに住むようになったから田浦になったらしい。
あの別荘地辺りは今も古江でね、あの辺よう遠足でいっきょってな。
別荘地の先にあるお宮さんも古江の人がお祀りにいっきょったんよ。裏の方に洞穴があってね。あそこでお弁当食べよったんよ。あの辺に はずーっと貝がたくさんたんやけどな。

夏がきたらね、タバコと時期が違うからね、みんな鰯網をするんよ。季節になったら、うちの親もみんなやっりょったんよ。
出てこいーってあの高台からほらを吹いてね。上でどこそこにあるからゆうて、地引網でひいてね、男の子たちは綱取りゆうてね、岡で綱を ひくんよ。
映画村のところに鰯を煎る小屋があって、そこで女の人がいって煎るんやけど、今ゴカイの養殖をやっとるところにな、小屋があったんよ、 あそこにむしろを広げてね。みんな広げて、お天気の良い日やんか1日で乾くから。夕方、おひさんがあるくらいの時に、またいって紙の袋 に鰯を詰めて集めるんやけど、私ら子供はむしろについとる鰯を拾いに行くんよ。残っとんをね それをフワッと入れて貰ってくるん。それ で一年中のいりこがもつんよ。
海鼠はそこのちょうど今網を干してとるところらへん小屋があって、あそこらへんに楡の木があって、その下に小屋があって、大きなお釡み たいなんがあって炊いとったな。解禁になったら船で出ていって、合図が出るまでみんなまとってな、合図が出たら一斉にひいてな。それを 一人の漁師さんがまとめて引き取って買って。昭和40 年代からやりょったんじゃないかな。



フィールドワーク

夏の終わりに友達を誘って馬立峠を歩いた。

  
  
  




漁師の山下さんは田浦で生まれ、ここで漁師をしながらこの土地の変化と共に生きてきた。今は定置網漁や蛸縄漁で魚を獲り、漁協へ持っていくという。
山下さんから田浦での漁業の変化のお話を伺い、蛸縄漁に同行させていただいた。



インスタレーション

安岐理加展 Dialobue ダイアローグ 土地 / 記憶 / 物語 / ヴァナキュラー















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